みなさん、やりたいことはありますか。
旅行に行きたい。新しいものを買いたい。
誰かと遊びたい。何かを作りたい。
でも、お金や時間が足りなかったり、失敗するのが怖かったりすると、こう言ってしまうことがあります。
「まあ、別にそこまでやりたいわけじゃないし……」

最近、私はこの言葉を少し疑っています。
やらなかったことにしておけば、できなかったことを、見なくて済むからです。
「あえて」は、便利すぎる
遊べる状況で、自分の意思で遊ばなかった人。
本当は遊びたかったけれど、環境やお金の事情で遊べなかった人。
外から見れば、どちらも遊んでいない人です。でも、本人の中に残るものまで同じとは思えません。
欲しいものを考えたうえで買わなかったのか、買いたかったのに買えなかったのかも、違うはずです。
「やらない」と「できない」は、同じではない。
ただ、「自分はあえてやらなかっただけ」と言っているとき、本当に選べる状況だったのかは、自分へ聞いてみる必要があります。

みんながやっていることに、興味がないふりをしていないか。
できなかった自分を見たくなくて、望んでいなかったことにしていないか。


「あえて」は便利です。便利すぎて、私も使いたくなります。
消したつもりの欲求
できなかったことを、長い間「やりたくなかったこと」に置き換えていると、欲求が消えたように感じるのかもしれません。
でも、自由な時間ができたり、お金の余裕ができたりした途端に、急に欲しくなることもありそうです。
見えなくなっただけで、残っていたのではないか。
私は、そういう欲求のしぶとさを考えてしまいます。


もちろん、我慢した欲求が必ず後で爆発する、という決まりを言いたいわけではありません。
私自身のことを考えても、欲しかった理由も、欲しくなくなった理由も、はっきりしないものがあります。
ゲームしかしていなかった頃
子どもの頃、私はソーシャルゲームが大好きでした。
宿題どころか、授業もろくに受けずにゲームをしていました。
強くなりたい。もっと先へ進みたい。そのために課金したい。
お小遣いも、お年玉も、ほとんどゲームへ入れていました。


数年後、急に思いました。
何をしていたんだろう。
今考えると、もう少し穏当な気づき方はなかったのかと思います。
ただ、それ以降は課金したい衝動がほとんどなくなり、勉強も自分からするようになりました。
やり切ったから満足したのか、成長して興味が移ったのか。正確なところは、自分でも分かりません。
少なくとも、ゲームに対する未練は残りませんでした。
とはいえ、「好きなだけ課金したらよくなりました」という成功談ではありません。
当時の私は、自分の欲求を理解して選んでいたわけではないんです。ただ衝動に動かされて、たまたま比較的取り返しのつく時期に、興味が落ち着いた。
運がよかったのだと思います。
進学や就職など、もっと大切な局面であの衝動が来ていたら、と想像すると少し怖いです。


欲求が、広告を読み上げる
あの頃の「強くなりたい」も、すべて自分の内側から生まれたものだったとは思いません。
強いキャラクターが次々に登場する。もう少し課金すれば先へ進めそうに見える。今を逃したら手に入らない気がする。
そんなものを見ながら遊んでいたのだから、ゲームの仕組みに育てられた欲求もあったのかもしれません。
広告を見て、欲しくなったもの。
他人と比べて、急に必要だと思ったもの。
周囲から評価されるために、欲しいことにしているもの。
欲求は、自分の進みたい方向を教えてくれることがあります。
けれど、いつでも正直な案内役とは限りません。
ときどき広告を読み上げています。


だから、欲しいと思ったことを全部かなえる前に、一度外へ出して眺めたいです。
これは自分の願いなのか。誰かに欲しがらされている部分はないのか。
きれいに分けられなくても、聞かないまま進むよりは、自分の買い物や行動を理解できそうです。
認めることと、従うこと
とはいえ、欲しいのに買えない自分を見続けるのは、しんどいです。
行きたいのに行けない。なりたい自分がいるのに、今はそこへ届いていない。
最初から望んでいなかったことにした方が、楽な場面もあると思います。
でも、私はそれでも、自覚していた方が楽しい気がします。
追いかけられる状況になったとき、まだ行きたい場所を覚えていられるからです。
何でも買おう、仕事を放り出して遊ぼう、という話ではありません。
それはそれで困ります。


欲求に従うことと、欲求の存在を認めることは別です。
今かなえるのか。後にするのか。
試して卒業するのか。自分の願いとは違うと分かって手放すのか。
何を選んでもいいけれど、見ないふりをしたまま「自分で選んだ」とは言いたくないんです。
100個、書いてしまう
ありきたりですが、「やりたいことリスト」は、そのために使えそうです。
できれば100個。大きさの違う願いを、同じ紙へ入れてしまいます。
期間限定のお菓子を食べたい。気になる店へ行きたい。
新しいソフトを使いたい。旅行に行きたい。
強いクリエイターになりたい。高級タワーマンションに住みたい。
お菓子とタワマンが、同じリストに並びます。


むしろ気になるのは、すらすら書けたものより、手が止まったものです。
恥ずかしい。自分には無理。別にそこまで欲しくない。
そのうちのいくつかを、また「あえて望んでいない」ことにしようとしていないか。
実現するかどうかは、あとで考えればよいと思います。誰にも見せない紙くらい、正直でも困りません。
かなったら消す。試してみて、それほど欲しくなかったと分かったら消す。他人との比較で欲しくなっただけだと思ったら、それも消していい。
100個を全部達成するための宿題ではなく、頭の中だけに置いておかないためのリストです。
壁紙では、覚醒しないけれど
大きな願いには、先に環境を少し近づけてみるのもよさそうです。
強いクリエイターになりたいなら、机を作業しやすくする。使うソフトを開きやすくする。壁紙を、少し格好いいものに変える。
壁紙を変えれば才能が生える、という魔法ではありません。
残念ながら、生えません。


ただ、机が片づいていれば、やろうと思ったときに始めやすい。
願いを覚えていれば、関連するイベントや機会を見たときに、「これ、行きたかったんだ」と気づけるかもしれません。
思い込むだけでかなうのではなく、思い出したときに動けるようにしておきたいんです。
人生には、ときどき「今ならできる」という瞬間があります。
そのとき、自分が望んでいたことまで忘れていたら、もったいない。
自分の欲求を、なかったことにしない。
誰から生まれたものか確かめて、それでも自分が望むのなら、機会をうかがっておく。
そしてチャンスが来たら――
飛びつく!


思っていたものと違ったとしても、それは欲求を一つ理解したということです。
何年もあとになって「本当はやりたかった」と気づくより、追いかけられるときに走っておく。
私は、そんなふうに生きてみたいと思っています。
ただし、壁紙を変えて待っているだけの時間は、なるべく短めに。












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